メヴレヴィー教団のセマーの儀式を観て

2007/08/20

 

 

友人の誘いで「メヴレヴィー教団のセマーの儀式」というものを見てきました。この「メヴレヴィー教団(トルコ)のセマーの儀式」というのは、祈りが「回る(回転し続ける)」という行為であり、その姿がとても美しいということで有名なのだそうです。そしてこの回るという行為は何時間でも延々と続けられるとのことでした。この教団はイスラム教のイスラムスーフィズム(神秘主義)の教団の1つで、1923年のトルコ革命の「脱イスラム政策」によって解散されられたとのことです。ただし、現在でもその活動を継続されておられる方々がおり、その「セマーの儀式」はユネスコの重要無形文化財に指定されています。私はここ最近、「人の体の動き」を見てもそれほど心惹かれることはなくなっていたのですが、この舞台は久々に興味をそそられるものでした。

「ただ長時間回る」ということですが、人間の体を機能的に考えた場合、どのような理由でそうしたことが可能になるのか?それが実際に儀式を目にする前の私に生じた疑問です。「回る」という動きですぐ思いつくのはバレエやスケートの回転ですが、これらの回転は利に叶っています。まず視線を1点に固定し、体が回っている過程で視線をギリギリまで残し、視線を残す限界に達したら頭部はいち早く回転し、体より早くまた同じ1点に視線を固定します。この方法ならば1回転ごとに視線を固定することで自身の安定状態を保つことができます。ただバレエでも一度に最大32回転という上限があります。練習ではその数倍の回転などを行いますが、それでも「数時間」ということはありません。長時間ただ回り続ける、ということがどういった方法論・身体感覚で行われるのか、これを実際に見て理解したいという気持ちが強くありました。

 

 

ここで人間の体のバランスについて少し考察します。体のバランスとはよく「三半規管・耳石」の働きとして説明されますが、実際に治療の場にあってはそこに全ての原因を求める考え方には賛同しかねます。これは私の施術が「足部からの体の安定」を重視するためもあるでしょうが、眩暈などを訴える人の多くは足部から上位へと体を安定させることで症状が軽快していくものです。この辺りの話は桧学先生の「めまいの科学」でも詳しく説明されていますが、頭部の神経機能ではなく、体の側に反射としての「正しい姿勢を保とう」とする機能があります。これは体の姿勢制御が脳の平衡器官のみに頼ったものではないということを意味しますが、この体の側の姿勢維持の機能が低下すれば体は当然揺らぎやすい不安定な状態になります。このように体が運動機能の問題で内部から不安定な状態では、そもそも自身の体を正しく制御できていないのですからそれを三半規管・耳石の情報に応じて正しく修正できるわけもありません。脳神経で正しく揺れ・傾き・回転を感知しているとしても、それを実際に運動器で修正できなければそれはやはり眩暈という訴えになります。三半規管・耳石は正しく機能しているにも関わらずです。また体の側から不安定となった場合は、複数の部位で個別の揺れが生じればその揺れは複雑な情報となり、単純な「頭部の揺れ」に比べて遥かに三半規管・耳石に負荷をかけるものとなることも考えられます。平衡感覚とは単純に三半規管・耳石の機能の問題ではなく、それと協調する体の反応の程度との関係性で成り立つものです(平衡感覚の訓練とはこの運動器の協調の意味が多分にあると思われます)。
これに加え、人間の平衡感覚の多くは目に頼っているものです。目で周囲に景色に対しての自分の位置を定め、その安定を図るというものです。内部感覚としての「安定」は三半規管等に頼るものですが、実際には目による「姿勢(位置)の把握」が大きく関与します。これは眩暈の際に眼球運動の異常が起こりやすいことから周知の問題といえると思いますが、眼球の動きに制限が生じた場合、それを起点に眩暈に至ることもあります(ここでの眩暈の定義は主観的な訴えとします)。体を大きく動かす時に視点をどこかに固定している場合はそこに無意識の眼球運動が伴うことになりますが、その動きが眼球にとって不都合な範囲の動き(サッケードなど視点を固定しにくい角度)であった場合は、その瞬間に視点による姿勢把握の情報に狂いが生じることで体が不安定な状態に陥ります。動作として単純で、三半規管等であれば何の問題もなく把握・修正が可能な範囲であるにも関わらずです。これは姿勢維持を身体の内部感覚(平衡感覚)ではなく、視覚という外部の情報(周囲の景色)に頼っているというケースですが、実際の臨床の中でこうした傾向を持つ人は多くおられます。現代人の内部感覚の低下の好例といえるでしょう。

「回転」に話を戻しますが、ここでの「回転」とはただ回ることを目的するのではなく、あくまで宗教儀式です。その目的において「回る」ということを想定すれば、それは宗教の修行などによくある「単調な動きの継続によって大脳新皮質の機能を抑制(低下)させる」ということになるでしょう。大脳新皮質の抑制とはそのまま脳の機能の主導権を大脳辺縁系に移行させるということですが、これによって宗教が欲として断ずる「意識的な思考」から、人間本来の「自然な状態」へと開放されるということになります。宗教的行為のほとんどの目的は形は違えど、これを目的としていると考えることができます。そこに至る単純な方法論は(簡単という捉え方ではありません)、目を閉じ、全身の動きを止めるなどで脳への刺激を絶ち、大脳新皮質の機能を低下させる方法。または脳に単調な刺激を与え続けることによってやはり大脳新皮質の機能を低下させる方法です。前者は静寂な場で目を閉じることで感覚器からの入力情報を絶ち、加えて自身の体の動きを一切止めることで内部感覚からの入力情報も抑制して大脳新皮質の活性化に繋がる「刺激」を絶つものです(座禅など)。後者は時計の秒針の音でよく知られる「脳(大脳新皮質の意)は単調な刺激を入力され続けることで機能が抑制される(眠くなってしまう)」というもので、仏教では木魚が好例だと思います。また単調な動きを繰り返すのも同じで、大脳新皮質は同じ刺激低下リズムを刻み続けられることで機能が低下していきます。脳にとっては感覚器からの情報も運動による内部感覚の情報も「刺激」という点では同じなので、刺激が単調であれば同じことです(蛇足ですが単調な手技の施術がリラックスに繋がるのも同じことです)。これと先の「回転」を結びつけると、回転という単調な動きによって大脳新皮質の機能を抑制させるものと考えることができます。

これを前提に先の回転という動きを考えると、バレエやスケートなどの回転方法でもそれを「単調な動き」と捉えれば「大脳辺縁系への移行」に繋がるとは思うのですが、そうした方法論に頼った一定の技術を必要とする「回転」が宗教儀式として相応しいかと考えれば、やや疑問が残ります。実際に目にするまで自分の中に大きくあったのは、「どういう方法論で長時間の回転という動きを維持するのか?」という疑問でした。

 

 

舞台が始まって実際に回っている姿を目にすると、それは私の想像していたものとは全く異なるものでした。10人近くの方々が一斉に両手を脇に伸ばし右手は手の平を天に向け、左手は地に向け、そして頭部は右に大きく傾いた状態のまま音楽に沿って一定の速度で回転し続けるのです。こうした宗教儀式を理論的な視点から観るのは失礼と思いながらも、いろいろ観察をしていました。真っ先に感じたのは「首を横に倒す」ということに対する驚きです。通常の感覚では首を横に倒してしまっては平衡感覚を司る感覚器は正常に機能できませんし、目での修正も相当難しいものとなります(目を完全に閉じているかは分かりません)。ただこの首の傾きには個人差があり、その動きから「まだ若干脳の感覚器に依存しているな」という方も見受けられました。そうした方ではそれに対応する形で体のどこかに体勢を維持する、または動きを修正している部位が見て取れます。つまりその人の回転がどこを主体に起こっているかが明確に見て取れるということです。ただ、その中で目立っていたのが首を完全に寝かせ、完全に脱力した状態で回っている方です。動きを見ていれば分かりますが首を傾けているために体のラインは自然なカーブを描き、我々の考えるような軸に頼ったような動きでは一切ありません。上半身は均一な緩みで安定し、下半身の足の運びだけが規則的に行われているのみです。オルゴールの人形がただ回っているような、いわば非人間的で自然な回転です。

回転を続けるということはどうしても「減速」に対しての「加速」の動きが必要になります。そして全員の足の動きを見ていると、その加速をどこで行っているかがよく分かります。体のどこかに余計な力みが生じていれば運動軸のブレから減速が大きくなるため、足での「加速」の動きが大きなものになってしまいます。逆に体が自然に使えている人は減速が少ないために足の動きが僅か・緩やかです。そして上記の完全に脱力した状態で…という方の足の運びは素晴らしいものでした。一定の速度で、かつ最小の動きで足が規則的に運ばれていきます。こうした全体の大まかな観察(宗教儀式にこうした言葉を使うこと自体が失礼だとは思うのですが)が終わったところで、ようやく最初の「回転の方法論」についての疑問に考えが及ぶようになりました。


結論からいえば、先の三半規管・耳石と体との協調関係がよく訓練されいるとは思うものの、私の目にはその姿勢維持・動きの把握は「足の感覚のみ」に拠ったものと感じられました。先にも説明したように、首を大きく倒した状態で頭部の感覚器に頼ることは考えにくいものです。もちろんそうした感覚器も水中や宇宙遊泳などの例を考えれば、訓練によって相応に高めることはできると思います。しかしこうした頭部の活動には必ず頚部などに僅かな力みが生じるため、脱力は完全なものではなくなります。その動きに若干の関与はあるとしても、その姿勢維持・動きの把握は明らかに頭部の感覚器・身体の反射に頼ったものではありません(ここで加えて説明しておくと、ただ回っているのではなく、定期的な音楽の変化によって一同が同時に回転を止めるので、明らかな「制御」という感覚は見て取れました)。そうした状況下で体の制御に働く機能があるとすれば、それは足裏と距骨に豊富にあるとされるメカノレセプター(機械刺激受容体)です。

姿勢に関してあまり重要視されていませんが、足の裏はメカノレセプターによって自身が置かれている状態(傾き)を感じ取ることができます(私個人としてはメカノレセプターという表現より圧受容器の方が適していると思います)。靴を履く生活で足裏の感覚が低下した現代人では実感しにくいものですが、足の感覚が鋭敏でかつ柔軟な動きを持っていれば、足はその傾きに応じて即座にその修正を行うことができます。傾きとはそれまで均一であった足の裏の圧力に不均衡が生じるということで、この圧変化がそのまま「傾き」として変換されるということです。これに加えて距骨のメカノレセプターが足首の位置を正しく保つことに働くわけですが、この感覚器の機能は体の緩みと大きく関係します。これは体の緩みが進めば進むほど重心の下降に伴って足裏の感覚器は豊かに働き、ほんの些細な圧変化(重心バランスの崩れ)に対しても反応できるようになるということです。これは「力み」が体を複数の部位で支えるというのに対して、「緩み」では体を足の1点で支えることの違いです。与えられる負荷が大きくなることで結果的に感覚器が十分に活性化することになります。

この足裏・距骨の感覚器が最大限に機能し、そこに十分な訓練が伴えば足部のみの機能で相当のバランス感覚を保つことが可能になります。これが「一定の回転」という単純な行為であれば、その正しい回転に必要な感覚を全身で正しく記憶できていればよいということになります。つまり一旦正しい回転の動作に入れば、足部が同じ感覚である限りバランスの崩れはないということです。またバランスの崩れが生じたとしても、それは足部のメカノレセプターで感知ができます。宗教儀式という背景を考えれば、そこに費やしてきた時間と、そこに伴う緩みで、その足部で完成されたバランスは容易に揺るがないものなのでしょう。足部の感覚のみに頼っている状態で、かつその「刺激(足部の感覚)」が体の安定によって単調なものであった場合、そこに大脳新皮質の機能低下に伴う大脳辺縁系への機能の移行が起こることは容易に想像できます。そしてその結果としての動きは、その自然さ・正確さ・美しさといった点で、通常の人間の動きを遥かに凌駕したものでした。

 

 

こうした大脳皮質に依らない動きは訓練によって得ることが可能だとしても、多くの場合はある条件化、または一時的なものである場合がほとんどです。そこに必要なのは自我の排除であり、大脳新皮質による「意識的な思考=自我」を消し去ることが必要となります。こうした非日常的な感覚を何かの際に得られることはあっても、それを持続することは至難の業です。こうした感覚が宗教行為の中で多く得られるのは、まず自分より先に神=絶対者を置くという自身の立場の明確化によるものであり、ある意味、自我の放棄という出発点に依るものです。これに類似するものとしては芸術(特に舞踊や楽器の演奏)などの中にみられます。やはり自分より先に踊り・音楽への愛情が先に立つといったことが出発点になっている場合に於いてです。このような結果として表現される体の動きとは強い精神性を有したもので、心身の合一によってのみ始めて起こり得るものです。そして結果として現れる動きが比類なく美しいというのは当然の帰結でしょう。

最後に、このように宗教行為を「体の動き」という観点に絞り、表記したことは決して宗教行為を軽視するものではなく、ただ治療者という立場から体の動きを通じて理解に近づこうとする行動であることをご理解頂きたいと思います。