結果ではなく過程の充実度について 2007/07/20
整体の目的は「体を整える」ことにあります。ただしこの「整える」には様々な意味があり、筋肉の張力を整える・関節の動きを整える・循環を整える・呼吸を整えるなど、様々です。整えるということは「曲がっているところを整える」という意味ではなく、曲がっていることを容認している体に対して、それが整った状態を容認させるということであり、全体が整うことを意味します。この「全体が整う」ことによって全身の機能が本来の状態に近づくよう活性化し、自然治癒力が活性化することになります。 ただし、何を対象として体を整えるにしても、それは体全体から見れば「一面に関して整う」ということに過ぎません。ここでの理想とは恐らく、患者さんが感じている体の不調を同じように認識して、その視点から体を整えることになるのでしょう。患者さんが筋肉の痛みを感じて来院した場合には、その筋肉の状態に施術の焦点を合わせ、患者さんの意識に対して的確な施術を行うことによって、症状が軽快するという結果に加えて、過程である施術そのものにも満足が伴うことになります。 ただしこれには、患者さんの愁訴が「患者さん自身が自分の体を正しく認識した結果である」「ということが前提条件です。例えば内臓の不調に起因する筋肉の痛みを、患者さんは内臓の不調を感じることなく筋肉のみの問題と捉えている場合、患者さんの意識に術者の視点を合わせることは大きな効果には繋がりません。正しく体を整えていくためには、まず患者さんの意識が正しく内臓に向く状態まで変化させる必要が生じます。ここに患者さんの希望する施術と、術者の意図に大きな隔たりが生じることになります。 私は以前、運動器主体の施術を行っていましたが、その時にはよく患者さんから「私が押して欲しい場所を全部押してもらった」と褒められたものです。しかし運動器に拘ることをやめてから、久しくそういう言葉を聴くことはなくなっていました。結果としての患者さんの健康状態は以前より遥かによいと思うので、充分な満足度は得られていると思うのですが、過程についての満足度についてはやや疑問が残ります。結果がよければこうした過程に拘る必要はないのかもしれませんが、自分の施術に欠けているものの1つとして、どうしてもこの「過程の満足度」は気になるものです。 つい昨日のことですが、これまでの施術で内部がよく整った状態の患者さんに対して視診をすると、運動器の使い方=クセの問題が際立って感じられました。そのため、そうしたクセを正す目的の施術(術式の一です)を行ったのですが、終わった後に患者さんから「今日は私がやって欲しいと思うところを全てやって貰えました」という満足そうな言葉を頂きました。その時の患者さんの満足そうな顔を想うと、そういう施術過程の充実が患者さんの意識を大きく変化させ、予後の安定に大きく寄与するだろうと感じられました。 人間が体と意識を分けて考えることのできない存在である以上、体を正しく変化させるには、そこに意識の変化も伴わなくてはいけません。結果として「よくなった」という意識の変化はもちろん大事ですが、こうした施術過程そのものから起こる意識の変化をないがしろにしてはいけないということを改めて実感した次第です。どうすればもっと日常的に施術で患者さんの望むものと、こちらの意図が一致するか。術者はつい結果ばかりを望みがちですが、それは「帳尻合わせ」ということなのかもしれないと考えるようになりました。 |