治療レポート

01/18

 

 
 大げさだが、今年の目標は「自分との戦い」にしたいと思う。
今まで、治療とか、勉学とか、戦いという言葉を例えて教えられてきた。個人的に戦いという言葉があまり好きではなく、それに対して、比喩的な言葉も浮かばず、ただなんとなく受け入れて今までやってきた。それが自分の中で足りなかった利点ともいえる。理論的と感覚的な言葉をもっと訓練を頻繁にしよう。今までが感覚に逃げて、今までが、自分がどの位置にいるかもわからずにここまできたかと思える。年があけて基本にかえる事にする。
先月の気がついた点が自分が思ってたよりも「手が出来ていなかった」という事について今、『押圧』について以前より意識するようになった。

 無心になって、身体に触れるという事は、ある程度壁を超えてからである。だからといって意識的に、まだ、また「力む」というのが優先的になってしまう。・・その中間を心得て施術するようになった。
私の押圧は浸透圧ではじまり、浸透圧で終わる。今まで自分の中では浸透すれば、深部まで届き、伝達し、そこの緊張を解除させ、閉じてる部位が開いたとして、起点をみつけて解除させる。そこから症状を改善させるという循環の回復のパターン的なのを主としてやってきた。私の意識的な考えは、「貫通」して、解除=緩む・・みたいな・・。しかし、そこの部位に到達したとしても中途半端な特攻隊のようなそこだけで朽ち果てるという事では、身体というのはなかなか改善方向には行かないものである。うまく伝達もできず、何度も同じパターンで繰り返し、結局は返り討ちにあったかのようにボロ負けをしたような結果で終わってしまう。準備段階がなかったのである。ワンパターンな施術のかたちだ。緊張を強めている周囲のさらなる緊張を、ジョジョに解除していく段階さえもあまり意識してはなかったと思う。戦術のパターンのなさがそこにあった。さらにおおげさではあるが、「腑に落ちる」まで自問を繰り返せという昔の言葉がある。人間は「腑に落ちる」レベルまで一つの事を考え抜く事が大事であり、文学にしろ、哲学にしろ、取り組むという事(姿勢)は一種の格闘技であり、単に知識を得るのではなく、「頭が痛くなるほど考える」すると腑に落ちるところまで到達する。そういう体験をするのが大事なのだ。と、ある雑誌で読んで私の戦術はそこからがスタートだともおもった。これを読んで、人間臭く大和っぽくも感じた。(勘違いかな・・・)
手が未熟とはいえ今は拇指にしろ、四指にしろ、肘頭、足底(足踏)にしろ、「面」を意識している。「尖」と思ってた手も「面」と意識した。表面を面で押圧する。
 そこでいろんな情報が入ってくる。さらに意識して(集中)深部を到達していくと、表面の情報がある細かなひきつれと実感する。そこを無視して深部だけをどうにかしようとは大きな間違いである。
身体が触れた瞬間に「手がスッと入る場所がある」
手がフィットしない状態で深部に到達するという事は勝手な頭が作り出したものの判断である。筋肉の繊維を分け入って押圧する事はその人の体の「スッとはいる場所」に位置したことにある(バカボンドでいう斬り合う時の「入った」と一緒なのか・・?斬り合った後良く会話したというし・・)私の手は私だけのてである。感覚も私だけの感覚にすぎない。人の体もひとりひとりがちがうのである。不自然な押圧は深部に届いたと思いながら伝達の効率の悪さにつながるのである。

「前腕は手指に隣接し、指先の繊細に動きに連携する。繊細な筋肉の集合体である」と前回のセミナーで学んだように繊細な場所に不自然な押圧を浸透させたところでそこには中途半端な頭の中だけの解除であり、相手の抵抗によってさらに緊張を強いらげることになる。たとえ緩んだとしてもしばらくするとまた緊張が復活してしまう。
このような実状を正直今までちゃんとむきあっていなかったと思う。それは患者さんにたいしての体に声だけ聞きながら無視をするのと一緒だ。今年は「腑に落ちて」を頭に入れてぶつかっていきたいと思う。不器用ながら自分のスタイルを獲得したい。